あけました
あけましたね。
あけましていかがおすごしでしょうか。
僕はいろいろあるけど不思議となんとかやれてます。
なんとなく不安になって考えがまとまるかなと思ってこんな化石みたいなブログを掘り出してつらつらとまとめてみる。暇。
頭の中に散らばった貝殻のようなとりとめのないこと。
急に寒くなった。
寒いとどうしてもネガティブになる。
部屋の窓が結露してるの久しぶりに見た。
ずっと6月がいい。
富山で2m超の積雪が観測されているみたいで、富山の友達が心配になって連絡しようと思ったけどやめた。
瞑想。そう瞑想を、今日から日課にしようと思う。ネトフリの「ヘッドスペースの瞑想ガイド」という番組に従ってやってみたら思いの外いい効果が得られた。
自我を俯瞰しているような調和の取れた感じ。
忘れっぽいので続くかはわからん。
生きてると取り返しのつかないことや不安なことがたくさんある。
毎日酒浸りの頭で脚がもつれながらもなんとか生きている。
どっしり構えることはできないけどそれなりに楽しいこともある。
明日は寒さましになってるといいな。
烏龍茶飲んで寝よ。
405
昨日の夜帰ってきてすぐ歯を磨いてから、ずっと布団の上でくたばっていた。3時、4時、5時と川の飛び石を渡るように中途覚醒する。その間に、きれぎれの夢をいくつか見る。気持ちよかったり苦しかったりするそれら。
起きて、シャワーを浴びる。頭のなかを満たす夢の残響は、シャワーを浴びているうちに霧のように晴れてきた。視界良好。
パーカーで外へ出ると肌寒い。昨日は夏みたいに暑かったのに。最近日によって寒暖差が激しくて、上着の選択が難しい。
スピッツの桃という曲が好きだ。半目で見る景色みたいに、朧げで、やさしくて。
死ぬまで何かをとらえることを辞められない人のまなざしは回り続ける星の光線と同じ。それは淵源から止め処なく押し寄せるビッグバンの余韻。
飲み会を2件断って、休日の予定もひとつ消えたから今日は飲むことにした。駅前のマクドで友人が来るのを待つ。
404
熱帯魚を飼う夢を見た。暗い部屋で、横の長さが2メートル以上はありそうな、大きな水槽がぼんやりと淋しく光っていて、俺はその水槽の前にちょこんと正座していた。水槽を覗くと、大きな灰色のたつのおとしごや、小さいテトラたちや、プレコや、コリドラスがゆらゆら泳いでいる。俺は餌をあげようと、スプーンで顆粒状の餌を容器からすくい、水槽の蓋の窓を開いた、すると、水面を泳いでいた、鮮やかな青い身体の中央に、血のように濃い赤の太いラインが横に一本入った大きな魚が、勢いよく飛び出してきた。飛び出した魚は、水浸しになった床の上で苦しそうにびちびち跳ねていた。やがて魚の身体はみるみるうちに萎んでいき、その眼から光は失われ、跳ねる力も次第に弱くなってきたから、俺は慌てて魚を掴んで水槽の中に押し込んだ。魚は水中でしばらく縦になってぐったりしていたけど、しばらくすると、また元気に群れに混じって泳ぎ回り始めた。そして安心して、もう一回餌をやろうと窓を開けると、その魚は懲りずにまた外へ飛び出してきた。夢の記憶はそこで途絶えている。その内容とは裏腹に、なぜか安らかな心地になるふわふわした夢だった。夢に水槽がよく出てくる気がする。
そういえば中学生のころ、実際に熱帯魚を飼育していたことがある。とは言っても、自分で購入したわけじゃなくて、父が不在のときに父の熱帯魚の世話を任されていただけだ。水槽には、プラティという肥えためだかみたいな丸っこい小さな魚がたくさんいて、群れを成している。ある日、俺はそこに、買ってきた灰めだかを1匹入れてみた、すると闖入者のめだかはたちまち怒ったプラティに追い回されて、水槽の端に追いやられてしまった。その日めだかは、底にある流木の陰に留まって、ずっとしゅんとしていた。俺はめだかに悪いことをしたと、申し訳なかった。
翌朝、めだかが気になって水槽を覗いてみると、なんとめだかはプラティの群れに混じって、元気よく泳ぎ回っているではないか。えさを入れるとめだかはプラティと一緒に塊を突く。あんなにぷんすかだったプラティたちは、俺が寝ている間に、闖入者のめだかを群れの一員としてすっかり迎え入れていた。それを見ていると、胸がじいんとして、泣きそうになった。めだかとプラティはまるで最初から一緒だったように、それから何日経ってもずっと仲良く泳ぎ回っていた。
後日その熱帯魚たちは、さじ加減のわからない幼い弟がえさやりをしようと意気込み、容器のえさを全部水槽にひっくり返して、全滅させてしまった。
たまにあのめだかとプラティのことを思い出す。またいつか魚を飼いたいな。
空は明るいけど雨がぽつぽつと降ってきた、今から友人とラーメンを食べにいく。
403
朝、よく出勤前に寄る公園がある。その公園には大きな樟があって、春になって葉が青々と茂ると、すずめ めじろ からす じょうびたき ひよどり など様々な鳥たちがその梢にやってきて、鳴き交わしたり、追っかけっこしたり、枝を啄ばんだり、にぎやかにしている。今朝も天気が良かったからそこへ、コンビニで買った缶コーヒーとパンを持って立ち寄ると、樟のほうからチュピチュピチュピチュピ と一定のリズムの、透き通ったさえずりが聞こえてきた。樟のふもとにそっと歩み寄って見上げると、小さなしじゅうからが、梢から梢へぴょんぴょんと器用に飛び移りながら、しきりにさえずっていた。しじゅうからは、この辺りでは少し珍しい。見えないけど、木の裏側にもう一羽いるようで、その子となにか会話しているようだった。今年発表された論文によると しじゅうからはイメージを単語化して、単語と単語を繋ぎ合わせて複雑な文章を作って、高度なコミュニケーションができる ということが判明したらしい。たとえば、仲間のだれかがヘビを見つけて、ヘビを意味する単語をさえずれば、他の仲間もそこにヘビがいることを認識できる、といったような感じ。こんなぽかぽか陽気の朝に、頭上のしじゅうからたちは、何を話しているのだろう。小鳥たちの会話は、どんな世界を小鳥の内に結んでいるのだろうか。そんなことを考えていると、なんだかぼうとしてきた。人間は、自ら発した言葉や、相手から受け取った言葉の真相を、どれほど捉えられるだろうか。口をついて出た言葉は、世界の表面をあえかにあえなく滑っていき、そして俺の認識は、その途切れ途切れの痕跡を虚しくなぞるだけ。そのときはなんでもなかった、自分やだれかのいつかの言葉が、不意に夢の中で具体性を持って現れ迫ってきて、はっと気付いて、後悔することもある。俺は自分の言葉に追いつくことすらできない。いつもわけがわからなくて、いっぱいいっぱいで、なんてままならないんだろう。そんなごちゃごちゃの想念が、しじゅうからを眺めていると次第に溢れてきて、うずまきはじめた。俺は「またね」と胸のうちでとなえて、それにそっと蓋をして、梢に向かって、しじゅうからを真似たへたな口笛を吹いてみた。反応はなかった。それからしばらくして、チャリに跨って公園を後にした。爽やかで気持ちのいい朝だった。