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朝、よく出勤前に寄る公園がある。その公園には大きな樟があって、春になって葉が青々と茂ると、すずめ めじろ からす じょうびたき ひよどり など様々な鳥たちがその梢にやってきて、鳴き交わしたり、追っかけっこしたり、枝を啄ばんだり、にぎやかにしている。今朝も天気が良かったからそこへ、コンビニで買った缶コーヒーとパンを持って立ち寄ると、樟のほうからチュピチュピチュピチュピ と一定のリズムの、透き通ったさえずりが聞こえてきた。樟のふもとにそっと歩み寄って見上げると、小さなしじゅうからが、梢から梢へぴょんぴょんと器用に飛び移りながら、しきりにさえずっていた。しじゅうからは、この辺りでは少し珍しい。見えないけど、木の裏側にもう一羽いるようで、その子となにか会話しているようだった。今年発表された論文によると しじゅうからはイメージを単語化して、単語と単語を繋ぎ合わせて複雑な文章を作って、高度なコミュニケーションができる ということが判明したらしい。たとえば、仲間のだれかがヘビを見つけて、ヘビを意味する単語をさえずれば、他の仲間もそこにヘビがいることを認識できる、といったような感じ。こんなぽかぽか陽気の朝に、頭上のしじゅうからたちは、何を話しているのだろう。小鳥たちの会話は、どんな世界を小鳥の内に結んでいるのだろうか。そんなことを考えていると、なんだかぼうとしてきた。人間は、自ら発した言葉や、相手から受け取った言葉の真相を、どれほど捉えられるだろうか。口をついて出た言葉は、世界の表面をあえかにあえなく滑っていき、そして俺の認識は、その途切れ途切れの痕跡を虚しくなぞるだけ。そのときはなんでもなかった、自分やだれかのいつかの言葉が、不意に夢の中で具体性を持って現れ迫ってきて、はっと気付いて、後悔することもある。俺は自分の言葉に追いつくことすらできない。いつもわけがわからなくて、いっぱいいっぱいで、なんてままならないんだろう。そんなごちゃごちゃの想念が、しじゅうからを眺めていると次第に溢れてきて、うずまきはじめた。俺は「またね」と胸のうちでとなえて、それにそっと蓋をして、梢に向かって、しじゅうからを真似たへたな口笛を吹いてみた。反応はなかった。それからしばらくして、チャリに跨って公園を後にした。爽やかで気持ちのいい朝だった。